「ハードウェア設計コンテスト」四方山話

「フェルマーの定理」とある技術者の思い出

　本誌の「ハードウェア設計コンテスト」に応募表明される方が増えてきているそうだ．編集部にこの企画を持ち込んだ者の一人として，とても嬉しい．しかし，とても悲しい事故も引き起こしてしまったようで，眠れない夜が続いている．
　コンテストの結果はいずれ誌上に発表されるだろうが，応募を予定していたある人との一件について報告させてほしい．

新アルゴリズム

　1月の下旬，編集部にコンテストについての一通の質問が来た．さっそく，出題の考案者ということで質問が回ってきた．内容は「課題のSQR(X^2+y^2)を求めるハードウェアに新しい計算法を取り入れたい．この方法の証明がちょっと複雑で，書くにはかなりのぺ一ジ数を必要とし，しかも編集部の人(素人)に理解してもらえるようにわかりやすく説明できる自信がない．ところで，方法自体も審査の対象となるのか」というものだった．
　差し出したのは，東京･西茨窪のあるメーカに勤めるＴさんという人で，提案どおりに行けば，非常に能率的に計算ができそうに思えた．とても興味深いので，先方の了解を得て，数日後，編集部の「不欠」氏とともに，勤務先に話を聞きに行った．「まだ，最後のツメが甘いのですが」といいながらノート･パソコンを操作しつつ説明してくれた．新計算法，その仕組みは半分ほどしかのみこめなかったが，ハードウェア化の考え方も興味深く，ぜひ応募をとお願いする．

ベルクを聴きながら

　そのあと，不欠氏は原稿整理の仕事があるといって会社にもとられたが，私とＴさんはどちらからともなく誘い合って，西茨窪駅近くのクラシックを聴かせるスナックGへ行って話し込んだ．ここは，トラ技やＩ/Ｆ誌の常連筆者として活躍されているＹさん(私と同窓であり，昔の仕事仲間でもある〉に紹介された店で，偶然ながらＴさんもここの常連とのことだった．店の構えは，古びていて，ＣＤではなく，ＬＰレコードを聴かせる.当然，アンプやスピーカ，プレーヤもほとんどアンティークである．なぜか，椅子や机も同じ．まるで30年前にタイムスリップしているかのようである．
　Tさんは，すぐにベルクの「叙情組曲」をリクエストした．この曲が心地良い酔いを誘うに適していたかはともかく，ともに音楽好き,同年輩とあって話がはずんだ．幼くしてＴさんは父母を失ったこと，数学者だった父はこのベルクを好んで聴いていたらしいこと，今回考案したアルゴリズムは父が遺した論文からヒントを得たこと，など．
　話を聞くうちあたかも旧知の仲のような気持ちになって店を出たのは11時を過ぎていた．降りはじめた雪が道路を白くしていた．

悲報

　その翌週，個人的な用件で，Ｔさんに連絡したいことがあり，勤め先へ電話をすると，なんとあの雪の降った晩，彼は帰り道雪でスリップした車にはねられて，病院に運ばれたときは亡くなられていたという．初対面ながら楽しく話し合ったあの店でのことが鮮明によみがえってきた．彼の人生で最後に話を交わしたのは，この私になってしまったのだろうか．しばらくは言葉も出なかった．彼の死の責任の一端は自分にもある．車にはねられたとき手にしていたノート･パソコンも雪道に散っていたという．SQR(X^2+Y^2)の新計算法もこの世から消えた．言い表せないほど空しい思いで何日もふさぎ込んでしまった．

フェルマーの定理?

　その事件のショックも収まりかけた2月のある日の昼休み，前述のＹさんが久しぶりに私の職場を訪れ，近く某誌で共同執筆して進める連載記事の打ち合わせを兼ねて昼食をする．Ｙさんが「この前,中学時代の同級生が急死してね」といったのをきっかけにTさんのことを話す．死んだのはＹさんの同級生と同じ日だ．Ｔと聞くとＹさんはフェルマーの定理について次々と話しだした．
　フェルマーの定理というと，「n>=3のとき，x^n+y^n=z^nとなる自然数x,y,zはない」というものである．
　Ｙさんは，「最近，フェルマーの定理の証明がほぼできた，といわれているけど，それは『谷山･志村･ヴェイユ予想』というのを証明したのと同じことだ」ということ，そして「谷山豊という数学者は，東大の助教授だった人で1958年に31歳で自殺，婚約者も後を追っている」とか，さらには「遺書には，借りているベルクのレコードがどうのということも出てくる」というエピソードには，本当に驚いた.
　もしや，私の会ったＴさんは谷山豊氏の知られていないご子息であったのかもしれない．私の気持ちの整理ができていないので，Ｔさんの本名は示せないが，察してほしい．300年以上も前，「証明は余白がなくて書けない」と書き残したフェルマー，今も謎めいた話題作りに事欠かないようだ．とにかく，早く眠れる日がきてほしい．(小川右祖)